室井一辰 医療経済ジャーナリスト

医療経済ジャーナリスト、室井一辰。『絶対に受けたくない無駄な医療』の連載をはじめ、医療経済にまつわる話題をご提供いたします。

(7回)『絶対に受けたくない無駄な医療』(室井一辰著,日経BP,2014)「アスペルガー症候群」はもう存在しない

絶対に受けたくない無駄な医療

絶対に受けたくない無駄な医療

【第7回】

実例3
「アスペルガー症候群」はもう存在しない
〝関係者〟の思惑で疾患が増える不都合な現実

 「病気が人工的に作り出されている」という視点がある。そんな問題への指摘が最近増えているのが精神疾患の領域である。精神疾患に苦しむ患者は多いが、その内幕には、精神疾患の曖昧さが隠れている。
 一例として、2000年代の一時期に病名がよく聞かれた「アスペルガー症候群」を挙げてみよう。音楽家のモーツァルトのような著名人がアスペルガー症候群に該当したという報告もあったくらいで、知っている方もいるかもしれない。
 このように注目された疾患だったが、この病気の名称は世界的に参照されてきた米国の診断基準から消えてしまった。
 私自身、病名が消えてからも、「ウチの子がアスペルガー症候群かもしれない」といった相談を受けたことがあった。川上君(仮名)という園児もそうだった。高い知能レベルにもかかわらず、対人関係が苦手な特徴を指してアスペルガー症候群だと指摘されることが間々あった。
 私が「アスペルガー症候群という名前はもうない。世界の医師が参考としてきた米国の診断基準から消えた」と伝えると、その保護者は目を丸くした。
 このアスペルガー症候群という名称は2013年に米国精神医学会が作成するDSM(精神障害診断と統計の手引き)と呼ばれる診断基準から取り除かれた。一般には名称がなくなったとはあまり知られていないかもしれないが、「自閉スペクトラム症」という診断名に統合されている。もちろん、自閉スペクトラム症としての可能性を考える必要はあるが、これまで問題とされた病気がなくなることに驚く人は少なくない。「病気ってなくなるの?」と。
 私自身、もともとアスペルガー症候群には違和感を持っていた。その最大の理由は、「アスペルガー症候群とはどういう病気であるか」が最後まで不明確で、基準もあやふやだった点だ。海外の専門的な報告でも、アスペルガー症候群と判断される人の特徴がばらついていると指摘されてきた。問題の所在が明確でなければ、問題とは言えないし、対処しようもない。
 アスペルガー症候群が典型だが、精神疾患の分野では、病気の名称そのものが変わってしまうような曖昧さが存在している。というのも、米国精神医学会のDSMのほか、世界保健機関(WHO)が作成するICD(国際疾病分類)と呼ばれる診断基準の中身が改定されると、病気そのものが見直され、中身が変わってしまうからだ。アスペルガー症候群はDSMから消えたのだが、逆に、DSMの改定により、2013年には新しい精神疾患の診断名が100以上も「誕生」している。

 わざわざ病気を作り出す医療業界
 
 精神疾患に曖昧さが残るのは、実用的な血液検査や画像検査が存在しないことによる。
 精神疾患の分野は、客観的な数値をもって病気を診断することが、世界的に見てもいまだに実現していない。正常な情動としての憂鬱と精神疾患との境目を明確にできないのだ。疾患を診断するのは、症状の有無やその組み合わせ、医師の知識や経験に基づく判断で、主観性がどうしても残ってしまう。同じ患者を診断しても医師によって判断がばらつくことが起こり得る。
 そこに、関連する人々や団体が影響力を行使する余地が生まれる。
 「ディジーズ・モンガリング(疾病喧伝)」という言葉をご存じだろうか。薬や検査といった医療行為から利益を受ける人々や団体が、利益を最大化する目的で、該当する病気の条件に合う患者をむやみに増やそうとする、いわば「病気を作り出す動き」である。
 例えば、うつの解釈を拡大すれば、抑うつの症状を示す患者に対して、診断がおろそかなままに無用な薬が投与されかねない。実際、2013年のDSMの改定では、従来はうつではないとされていた死別に伴う抑うつ症状がうつと診断可能となったため、米国ではメディアを巻き込んで製薬企業の陰謀説が持ち上がった。死別のうつが正常な範囲での感情の変化であれば、過剰にうつの診断が広がったとも解釈できる。

 薬を処方すれば、製薬企業や医療機関の利益につながる。たとえ真のうつでなくとも、抑うつの症状にうつの薬は効果を示す。従って、本来であれば「病気に対して薬を使う」となるはずが、「薬が効くから病気」という逆転が起こる可能性がある。病気を作り出す動きに歯止めをかけるのはいったい誰であろうか。脳の病気としてのうつに目がいかないままに、曖昧な精神疾患が跋扈する恐れはある。こうした診断の基礎部分における脆弱さは一般の人々からは見えにくいものだ。
 「精神疾患」と言われて気持ちのいい人は少ないだろう。だからこそ、むやみに精神疾患と診断されれば、不信感は医師ら医療側に向く。最近では、うつのほか、成人の双極性障害、子供のADHD(注意欠如多動症)などで同様の問題が起きつつある。
 厚生労働省は2013年からガン、脳卒中、急性心筋梗塞、糖尿病に並ぶ重要疾患として新たに精神疾患を加えて「5疾患」とした。疾患によって生じる経済損失の規模は、精神疾患がほかの4疾患のいずれをも凌駕する。厚生労働省の推計では、その額は2兆7000億円に上るという。都道府県は地域の保健計画に精神疾患も含めた対策を盛り込む必要性が出ている。
 精神疾患に限らず、病気には恣意性が潜んでいる。要するに、異常の基準を変えれば患者は増えるのだ。血圧の異常の範囲を、より低い血圧値に設定したとしよう。そうすれば、従来は正常だった人も高血圧と認定されることになる。そのような誰かの利益になる方向での病気の「見直し」は、医療の世界では起こり得る。病気の根拠を常に意識しなければ、「だまされる」ことすらあるわけだ。
 重要な問題であるだけに、根拠や不確定性を知る意味をあらためて確認したい。

実例4
CT検査、善意の裏に悪意の影
医療側の責任回避が患者の被曝リスクを高める

(つづく、第8回へ)