【第105回】
過剰診断の裏に皆保険制度の存在
「Choosing Wiselyはあくまで米国における推奨であり、そのまま日本には当てはまらない」。日本の医療界に身を置く人はこう思うかもしれない。
ただ、その言葉には表と裏の理由があると思う。表の理由とは医療経済的な問題や医師養成における日本と海外との差であり、裏の理由は医師らの知識不足、儲けやリスク回避の問題である。
まずは分かりやすい裏の理由から見ていこう。これは、第一部で掲げた「無駄な医療」を「知っていてやる場合」と「知らずにやる場合」の2通りのパターンで紹介した背景と同じだ。
仮に、知識不足で無駄な治療を実施しているケースが多いのであれば、すぐにでも解決に向けて動くべきだ。それこそ、Choosing Wiselyのような取り組みを日本中の医師に知らしめればいい。多忙な医師には、最新の情報にアップデートしていく暇が常にあるわけではない。米国では医師の生涯教育や再教育を促す仕組みも生まれている。そういった動きを踏まえて、日本でも情報を紹介していくキャンペーンを張るのは意味があると考えいる。
一方で、意味がないと認識しているにもかかわらず、その治療が行われているとすれば、それは大人の事情によるところが大きい。一つは、既に触れているが医療機関の経営問題が挙げられる。検査をすればするほど儲
かる、治療をすればするほど儲かるといった問題だ。
49ページで述べたように、血管の治療において、必ずしも必要性が明確ではない処置が国内で広がっている。診療報酬の改定で特定の医療行為が増加する現象も紹介した。Choosing Wiselyは、医療を提供する際に患者の出費を意識するよう口酸っぱく求めているが、患者の出費が引き下げられれば、医療経営にネガティブな影響を与える。医療機関が儲けのために無駄な診断や治療を増やしているとは思いたくないが、経営問題が判断を微妙に狂わせるという状況があるのであれば、そういったリスクを抑える仕組みを作る意味があるだろう。
また、Choosing Wiselyが非推奨とした項目を見ると、特定の診断や治療について根拠の不足を指摘したものが少なくない。大手製薬会社ノバルティスファーマによる臨床試験の改ざん問題のように、本来は存在しない効果を、根拠をねじ曲げてまで患者に押しつけるような動きは今後も起こるかもしれない。企業の利益のために、意味のない診断や治療が横行することは許されることではない。常に厳しい目を注ぐ必要がある。
もっとも、こういった裏の事情だけであれば物事は単純かもしれない。ただ、現実は表の理由の方が厄介だ。
Choosing Wiselyのような取り組みがそのまま日本に当てはまらないのは、大きく言って2つの理由がある。患者側の事情に即した理由と、医療側の事情を映した理由である。
日本では米国とは異なり、検査にかかるコストが比較的低い。第一部で紹介したように、日本では急性虫垂炎や上腕骨骨折で入院してもコストは米国ほどかからない。さらに、患者負担は3割、高齢者であればさらに低く抑えられている。日本の患者にとって、検査や診断にかかる費用は米国ほどの切迫感を伴わないのだ。逆に、比較的手が届きやすい価格なだけに、過剰な検査あるいは治療、予防対策が安心感につながってしまう。
もちろん、背景には日本の皆保険制度がある。医療費の窓口負担が3割、年齢次第ではそれ以下で済むうえに、国や保険者は予防医療の対策に積極的で、住民健診や人間ドックを充実させている。これは素晴らしいことだが、半面、多くの人が低コストで診断や治療、予防に向けたサービスを受けられる。CT検査の実施件数は日本が世界最高と見られるが、これも患者の費用負担が軽いからこそ成り立つ。内視鏡の検査を受けるためにかかる費用も手頃だ。
健常者を対象としたPSA検査を見ても、Choosing Wiselyは推奨していないが、日本では「検査できるのならやればいい」との結論になりやすい。事実、日本泌尿器科学会をはじめ日本の医療界は、検診でのPSA検査に前向きな姿勢を示している。これはChoosing Wiselyでの消極的な姿勢とは大きな隔たりがある。
欧州の研究では、PSA検査によって前立腺ガンによる死亡が約20%減らせると主張しており、日本側にも推進するだけの根拠はある。死亡する患者が減るのであれば、検査に手間と費用をかけても構わないと見るか、1人の死亡を防ぐために、1000人もの患者に10年近く検査を繰り返すのは過剰だと捉えるのか、解釈次第で検査を推進する方向にも反対する方向にも振れる。ただ一つ言えるのは、日本では検査のコストが米国よりも低く抑えられやすいので、費用負担については問題が起こりにくい。
米国の推奨、非推奨を日本にそのまま当てはめられないもう一つの理由は、医療側の事情だ。臨床研究から出たエビデンスは海外の人を対象に検証している場合が多く、日本人の患者にそのまま適用できないという問題である。
確かに、日本人とほかの人種との間の生物学的な差や食生活の差などを考えることは大切だ。例えば、高血圧を治療する利尿薬の中には塩分の排出を伴うタイプがあるのだが、普段の食事に塩分が多いか少ないかで効果は変わる。生活習慣が投薬効果に影響を与えるということだ。当然、生物学的な差や生活習慣を推奨、非推奨に反映させる必要が生じる。
ただ、現状を見れば、日本が無駄を許容する余裕はなくなってきている。
(第105回おわり、第106回へつづく)