室井一辰 医療経済ジャーナリスト

医療経済ジャーナリスト、室井一辰。『絶対に受けたくない無駄な医療』の連載をはじめ、医療経済にまつわる話題をご提供いたします。

第6章 医療を疑うことの意義(59回)『世界の医療標準からみた受けてもムダな検査 してはいけない手術』(室井一辰著,洋泉社,2019)

世界の医療標準からみた受けてもムダな検査してはいけない手術

世界の医療標準からみた受けてもムダな検査してはいけない手術

第6章 医療を疑うことの意義

医療を疑ってもいい

 ここまで、チュージング・ワイズリーの具体的な項目を見てきました。検査、薬、手術という医療行為の中に、専門的な医学会も必要性を疑問視しているものが多数存在していることがお分かりいただけたと思います。
 エビデンスというめがねを通して見ることで、それまで当たり前と思っていた医療の中にムダが隠されていると分かることがあるのです。受けている医療についてただ漫然と受けるのは良いことではありません。入院中の寝かせきりは良くない、運動をした方がいいというのなどは、今の高齢化する日本にとっても特に示唆に富む項目だったのではないでしょうか。冒頭でお伝えしたとおり、日本では誘発需要によってベッド数が過剰になり、長期にわたる入院が当たり前になっています。手厚い医療と看護を受けられるという面では日本ならではの文化と言ってもよく、これを居心地がいいと思う人もいるでしょうし、また高齢者を入院させておくと、楽に感じる現役世代がいる、というのも事実かもしれません。ですが、少なくとも本人の健康にとっては、それが良いこととは限らないのです。
 今年、私は岡山の倉敷スイートタウンという病院に取材に行きました。そこでは、トップである江澤和彦理事長自らが食べることと排泄は人間の尊厳にとって最も大切だと強調しており、病院総出で自立に向けた活動をしている現場を私も見て回ることができました。それは日本の現状へのある種のアンチテーゼともなっているようにも思えましたが、そうした試みはもっとあっていいのではないかと、個人的には思います。
 当たり前のように行われていることに、正解があるとは限りません。これから医療の分野では、誰もがもっと情報をとりやすくなってくると思います。今回、紹介してきたチュージング・ワイズリーは残念ながら英語なのですが、日本でもこうした理念に賛同する医師は増えてきており、実際に啓発活動をする医師らが集まって、チュージング・ワイズリー・ジャパンという組織をつくって動いています。時間はかかるかもしれませんが、日本でもこうした情報発信が進む可能性は高いと考えています。
 もっとも、既に情報誌などでは盛んに取材活動が行われています。私自身も協力していますが、日本的医療文化を疑う意識が徐々に広まり、社会の中でも当たり前になっていくという意味で「成熟」に向かうのではないかと考えています。

受ける側からもムダは生まれる

 お伝えしなければならないのは、医療を受ける私たちからもムダな医療は生まれるということです。
 たとえば、口から食べられなくなった人に対して、鼻から細い管を通して栄養液を注入する経鼻経管栄養は一つの例です。おなかから胃に管を通す胃ろうも同じです。こうした医療がムダと考えられるとしたら、それは何も医療従事者ばかりが進んでこうした医療を行っているからではないのです。家族がこうした治療を受ける人を介助することができないために、むしろ積極的にムダな医療を医療従事者に依頼しているケースの方が多いのではないでしょうか。また、医療を受けている本人が終末期医療をどのように受けたいか、という意思を必ずしも示していなかったことが理由の一つにもなっています。チュージング・ワイズリーにおいては、認知症になった人には胃ろうは行うべきではないと指摘されていました。そうしたムダは、私たち自身が生んでいる面もあることは認識しておかなければなりません。ややもすれば、ムダな医療と聞くと、医療従事者が問題なのだと直感的に思われがちかもしれませんが、そうではありません。
 日本では、入院する高齢者の多くに認知症の傾向も見られています。そこでは、管を通して栄養補給をされるのがありふれた光景になっており、高齢になって口から食べられなくなった人を、漫然と経管栄養で生きながらえさせている、というような光景に出会うことがよくあります。健康とは言えない状態で、年齢だけ重ねられていくというのは、やはり問題だと思います。
 かつては、親族が年金受給できるから高齢者を生かしておく、というようなことも言われていました。最近ではそこまで年金受給のある人は多くはなくなっているので、そうした事態は収束しつつあるようですが、延命治療の問題そのものは解決されていません。
 こうした延命治療についても、必要性を問うべき医療行為の一つと見なしてもいいでしょう。国際的には、アドバンス・ケア・プラニングという形で、元気なうちから、自分自身で延命治療を受けたいかどうかの意思を確認するような仕組み作りが進んでいます。医療従事者や家族、本人も含めて書面で合意をして、納得尽くで医療を進めていくのです。たとえばこうしたとりくみから、ムダな医療を解消していく糸口は見いだせるのだろうと思います。
 大事なことなので何度も申し上げますが、受けている医療を疑うことなく、漫然とした姿勢で利益を享受しようとする私たち自身こそが、ムダな医療を生んでいる存在なのです。医療従事者ばかりを批判するのではなく、自分たち自身の姿勢を問うべきなのです。

無視できない医療経済の膨張

 日本の国民医療費は2016年度に42兆3644億円になりました。1人当たり33万2000円です。日本では3割負担であるために、医療費にお金をつかいすぎている、というイメージがしにくいところはあるかもしれません。ですが、医療を簡単に受ける傾向は顕著であると考えています。高齢者が診療所に通い詰めで、たまに来られない友達がいると今日は病気かしらという笑い話が当たり前になるのが日本という国です。
 2018年、米国に取材におもむき、専門的に医療にかかわっている人とお会いしましたが、日本ではほとんどの人が3割負担で医療を受けられるのだと話すと、よほどの国際的な医療経済学者でなければたいがいは驚かれます。また、あるとき米国の医療ジャーナリストに、日本では医師が薬を処方すると、医師は薬剤費とは別に処方料という医療費を収入として取れると何気なく話したところ、「信じられない」と目を丸くしていました。「それでは薬が使われすぎるようになるのは当たり前だ」と言うのです。薬剤処方へのメーカーからのリベートと誤解された面もあり、保険から支払われる正式な診療報酬だと説明しましたが、言われてみれば、薬を処方する強いインセンティブになること自体は間違いありません。そんなのは米国では全く考えにくい光景だ、ということなのです。日本の常識、米国の非常識ですね。
 日本でも、安易に医療を受けない、という選択をすることは十分考えられます。 財政破綻した北海道夕張市で医師として働いた森田洋之さんが『医療経済の嘘』(ポプラ社)という本で報告しておられるのですが、夕張市では財政破綻によって病院がなくなって医療費が減ったそうです。なのに、むしろ高齢者の寿命が延びるという現象が起きたというのです。
 医療経済の問題は無視できません。膨れ上がる医療費ですが、そこにお金がかけられているのは本当に必要な医療行為なのかどうか、見直す必要がありそうです。

黒船来航こそ好機に

 ペリー提督率いる黒船の来航を契機に、日本は鎖国の終焉に向けて動いたと言われますが、なかなか国内からの働きかけだけでは、良くも悪くも安定的に運営されていると考えられる日本の医療を動かすのは難しい面もあるでしょう。ことムダな医療の解消という点では、日本の医学界が真剣に動いているかというと、とてもそう言える状況ではありません。チュージング・ワイズリーは一つの好機。黒船来航のようなインパクトはまだまだないのかもしれませんが、日本で広がって悪い活動ではないはずです。
 そのためには医療界だけの動きでは十分ではないと私は考えています。日本では、なかなか受ける医療に問題意識を持つという動きは生じにくいと見られており、マスメディアなどでは医療費の問題などはよく伝えられていますが、他人事というのが多くの人の実感ではないでしょうか。
 ですがこれから、1人の現役世代が1人の高齢者を支える時代に日本は突入していきます。そうなったときにも同じ考え方でいられるとはとても思えません。難しいこととは知りつつも、早くから意識を改めていくことが求められているのだ、と思っています。
 米国で広がるチュージング・ワイズリーを知り、その考え方を理解することで、医療費の膨張への問題意識を持つ良いきっかけとなるのではないかと考えています。

普段受けている医療を疑うことを知る

 私たちが「ムダな医療」をなくすために必要なのは、普段受けている医療を疑う意識をもつということです。医療は赤ひげの世界が今でも幅をきかせていて、医は仁術で、医師はじめ医療従事者が施してくれることはメリットばかり、と考える傾向は根強くあると考えています。実際に、患者としては医師と接していても「あなたの施してくれる医療はデメリットがあるのですか」「本当は受けない方がいいのではないのですか」とは尋ねにくいもの。というか、そのようなことを考えないようにしているというのが日本の実情だと思います。
 こと医療になると、どうもその結果についての理解が及びづらく、メリットやデメリットという問題にフタをする傾向があると思うのです。ただ、よく観察していると、フタをしているのであって、心の中では疑いたい気持ちが強くあるのだと考えています。私自身、よくどのような医療を受けるとよいですかと相談を受けることがあるのですが、そのあたりの葛藤がよく見て取れるのが、「セカンドオピニオン」について尋ねられたときです。多くの日本人が病気になったときに、病気が深刻であるほど、その治療に対しては慎重に考えます。そのため最近では、セカンドオピニオンを受けたいという希望がますます強まっているようなのですが、その前にまず「医師にセカンドオピニオンを聞いてもいいかどうか」について私に聞いてくるのです。私自身はセカンドオピニオンは当然のものとして受け入れていますから、堂々と主治医に相談してはどうですか、と言うようにしていますが、セカンドオピニオンを求めること自体に高いハードルを感じる人も少なくないようで、実際にセカンドオピニオンを求めようとしたところ、医師から叱責まがいに「私の方針に不満がありますか」と言われた人もいると聞きます。医師の気持ちも分かりますが、そうした意識は変えていかなければならないのではないかと思うのです。
 多くの日本人は、医療界に距離を置いていて、場の空気を読んで、医療を疑わないように気づかってきたというのが真実かもしれないと思います。やはりチュージング・ワイズリーの精神を学んできた立場としては、医療は疑っていいもの、セカンドオピニオンにしても、堂々と聞いてよいものであるという風に考え方を変えていくべきではないかと考えています。
 医療従事者からしてみると、医療に疑問を投げかける患者が増えると、生半可な知識で色々と尋ねたりしてくるので面倒だという意見もあるようです。ですが、治療効果の観点から総合的に見るとどうなのでしょうか。治療への参加度は上がって、むしろ利益の方が目立つ可能性はあると思うのです。医療従事者と患者がともに参加していく医療の形をむしろ追求していく方が、全体としての最適化につながるはずです。ようするにWin-Winの関係へと向かうのではないかと私には考えられるのです。ですから、医療を受ける立場としても、ここまで見てきたように、医療を疑いメリットとデメリットをてんびんにかけて考える姿勢を持つことは、間違っていない。そう私は考えます。
 考えるくせをつけて、自分が健康に生きるためにはどのように行動すべきか、医療とどう付き合っていくのか、私たちの姿勢を問うてくる存在こそが、世の中に実際に存在しているムダな医療なのです。