【第5回】
実例1
開腹か、腹腔鏡か、医師の意見が二分
情報に振り回されて右往左往
ある日本メーカーで定年まで勤め上げた、70 歳を目前にした南野博氏(仮名)は2013年に突然、胃ガンであると検診の結果告げられた。
ガンという結果にも驚いたが、手術日の指定が突然であることにさらに驚いたという。
「手術の予定ですが、なかなか日にちに空きがなく、2週間後に予定できればと思います」
2週間後──。
そのうえ、医師は南野氏に対して、「腹腔鏡」を使って胃の「部分摘出」を行うという耳慣れない手術方法を説明した。だが、いくら説明を聞いても内容はチンプンカンプンだったという。このスピード感は、ガンの診断を受けた多くの患者に共通する怖さではないか。
まずは医者を信じてみようと思った南野氏だったが、南野氏と家族との間で治療をめぐって議論が起こり、徐々に南野氏の決断は揺らいでいく。
胃ガンを何とかして治したいと思うがゆえに、いいかげんな選択をしたくはない。だが、検査や治療の価値を判断するのは難しい。南野氏と家族は難しい決断を迫られた。
胃ガンは日本での年間罹患者数がおよそ10万人を数える日本人で最も多いガンである。ありふれたガンとはいえ、日頃、医療情報に触れるわけではない一般の人々にとっては難しい。
医師は南野氏に、「手術の方針に不安があれば、セカンドオピニオンを受けてもらって構わない」と伝えた。別の医療機関で第三者的な立場から助言をするものだ。
南野氏の娘はこう振り返る。「よく言えば、患者の意向を尊重したとも言えるが、悪く言えば、素人の患者やその家族に負担を強いるところもある。医師に言われる通りの治療を受ければ楽かもしれないが、なかなかそうもいかない」。患者には「判断の丸投げ」にも映りかねず、新たな悩みの種になる。
南野氏、家族ともども、選択に迷いながら、胃ガンとは何か、治療はどういうものか、という基本から学ばざるを得なくなった。
次に、胃ガンの治療の基本的な選択肢を示すが、初歩的な内容ですら一般の人々にしてみればすぐには頭には入りにくいものだ。
腹腔鏡の位置づけは「実験的な医療」
まず、ごく早期のガンであれば口から内視鏡、いわゆる「胃カメラ」を入れて手術をする方法が取られる。内視鏡のケーブルの中に通せるような手術器具を使い、病変部を切ったり、縫ったりする。
南野氏の場合は、内視鏡で対応できる段階を通り過ぎてガンは進行していた。胃の粘膜にとどまっていれば内視鏡でよいが、内側の粘膜よりも外側にガンが進出していれば、いわゆる「おなかを切る」という形で、腹部の外側から腹壁や胃壁を切って手術をする必要がある。
南野氏の場合は「開腹」か「腹腔鏡」かのどちらかの方法でおなかを切開する必要があった。
開腹手術は、おなかを大きめに切って、ガンのある胃を切る昔ながらの手術だ。こちらの方が確実だとの見方は根強い。
それに対して、腹腔鏡とはおなかを大きく切らずに小さい「穴」を作って器具を挿入して行う手術方法だ。細長い器具で病変部を切ったり縫合したりする手術方法である。腹壁を切る範囲が小さいので、痛みが小さく、術後の回復も早いと見られている。
さらに、胃ガンの切除のためにどれだけの範囲の胃を切るかの選択もしなければならない。その選択も、胃の全部を取りきる「全摘」、部分的に切除する「部分摘出」がある。
全摘についてはガンを取り切るうえでは確実性が高いと見られるが、部分摘出の方が手術後に胃の機能が残るので、栄養吸収のためには好ましいと考えられる。全摘か部分的かはガンの広がりを基準に判断するため、広がりを正しく判定できるかどうかが前提となる。いかに正しく見極めるかには不確実性も伴う。
南野氏は家族と侃々諤々、話し合った。家族は不安を感じて、ネットなどで検索したがよく分からない。
おぼろげながら分かってきたのは、「医師らの世界でもどちらがよいか結論が出ていない」という意外な結果だった。
結局、南野氏は別のガン専門の病院でセカンドオピニオンを受けた。そのうえで、最初の病院での腹腔鏡手術を受けず、セカンドオピニオンを受けた病院で開腹手術による部分摘出の手術を受けることにした。
この開腹か腹腔鏡かの選択が医療界でも結論が出ていないというのは真実だ。例えば、2014年に神奈川県立がんセンターの研究グループが、二つの手術法の間で患者の負担や栄養面に差はないという報告を出している。腹腔鏡は負担が軽いはずが、実はそうでもないという意外な結果である。世界的に検証が続く一大難問だ。
開腹か腹腔鏡かといった疑問に結論が出ていないことは、あまり一般には知られていない。日本胃癌学会のガイドラインでは、腹腔鏡による手術はいわば「実験的な医療」という位置づけと記述している。新しい技術を取り入れたい医師らは腹腔鏡をスタンダードに持っていこうとしているが、コンセンサスは得られていない。
しかも、安全性が盤石と言えない面もあり、2014年4月から5月にかけて順次公表されたが、千葉県がんセンターの医師が手がけた腹腔鏡を使った手術で、連続して術後に患者が死亡していた。同様のトラブルは時々報告される。
南野氏の場合は想定外もあった。開腹した後に、執刀医らはガンの広がりがやや広いと判断、胃の全摘に治療方針が切り替わったことだ。「開腹手術による胃の全摘」。当初の病院で示された治療方針と比べると正反対となったことになる。
南野氏の事例で見られたように、ガンという診断が下ると、患者は突然難しい選択に迫られる。胃ガンに限らず、ガンの手術では同様の選択がついて回る。大腸ガンや食道ガン、子宮ガン、膵臓ガン、前立腺ガンなどのいずれでもだ。
腹腔鏡で手術するか、開腹で手術するか。全摘か部分摘出か――。同様の問題で悩む人は今後も続出するだろう。
実例2
「ブルガタ症候群」で調べるほどに不安倍増!
不十分な説明で混乱の極みに
(つづく、第6回)